• 木下 昂也(Koya Kinoshita)

スペイン最後の騎士『アルブルケルケ公』



写真:Hipódormo de la Zarzuela https://www.hipodromodelazarzuela.es/noticias-destacadas/80-a%C3%B1os-de-historia-hz-%E2%80%9Cel-gran-duque-de-alburquerque-%E2%80%9C

 4月18日、スペインのマドリードにあるサルスエラ競馬場で、カテゴリーA競走ドゥケ・デ・アルブルケルケ(芝2000m - 4歳以上)が行なわれる。ドゥケ・デ・アルブルケルケとは、日本語にすると『アルブルケルケ公』となる。


 スペイン競馬のビッグレースには、過去の名騎手の名前がつけられている。たとえば、古馬マイル王を決める『クラウディオ・カルデル』。この人はスペイン・リーディングを18回も獲得し、スペイン競馬最大の競走であるマドリード大賞を12勝した怪物ジョッキーである。もしくは、『ロマン・マルティン』というレースもある。この人もまた、スペイン・リーディング10回、マドリード大賞6勝という名ジョッキーだった。


 では、アルブルケルケ公とはどのような騎手だったのか?


 注意してほしいのは「アルブルケルケ」は人名ではなく、スペイン南西部、ポルトガルとの国境近くにある地名だということである。アルブルケルケの公爵、つまり、貴族の称号である。それも、たまに日本の海外紹介系テレビ番組に出てくるような名ばかり貴族ではない。アルブルケルケ公はスペインを代表する名門貴族であり、国王の前でも着帽を許される特権身分だった。日本でたとえるなら、足利家や徳川家のようなものである。


 アルブルケルケ公の起源は1464年までさかのぼる。当時のカスティーリャ国王エンリケ4世が、サンティアゴ騎士団の団長だったベルトラン・デ・ラ・クエバにこの称号を与えたのが始まりである。サンティアゴ騎士団というのは、イベリア半島のイスラーム勢力と戦うために設立された王立の軍事組織、と考えてもらうと分かりやすいだろう。


 アルブルケルケ公は代々、副王や行政長官といったスペイン王国の要職を務めた。競馬のレース名となったアルブルケルケ公は、18代目のベルトラン・アルフォンソ・オソーリオ・イ・ディエス・デ・リベーラ(Beltrán Alfonso Osorio y Díez de Rivera)である。以下、アルブルケルケ公とはこの人物を示す。


■ 18代目アルブルケルケ公の紋章


 アルブルケルケ公は1918年12月15日にマドリードで生まれた。1936年に勃発したスペイン内戦に従事し、1954年から1993年にかけて、前国王フアン・カルロス1世の父親であるフアン・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグに仕えた。しかし、アルブルケルケ公を有名にしたのは、輝かしい爵位でも、王家に対する長年の奉仕でもない。馬への情熱である。


 15代目アルブルケルケ公に、ニコラス・オソーリオ・イ・サヤス(1793年~1866年)という人物がいる。この人物こそ、スペインにサラブレッド生産を導入した人物と言われている。以降、爵位の継承者は、馬への情熱も引き継ぐことになる。


 アルブルケルケ公が8歳のとき、父親からあるニュース映画を見せられた。「これまで見たものの中で、もっともエキサイティングな映像だった。このレースに乗らなければならないと思った」と、彼は振り返った。このとき、彼は騎手になることを決意した。そのレース映像こそ、彼が後に歴史を創ることになるレースである。


 アルブルケルケ公は生産者として、馬主として、調教師として、そして騎手として、積極的に馬事文化に携わっていく。とりわけ、彼はスペイン最高の騎手の1人と称されるほど、騎手としての才能に恵まれていた。この場合の騎手は「競馬の騎手」という狭い意味ではないく、「馬に乗る人」という広い意味でとらえるべきである。


 1952年、アルブルケルケ公が33歳のとき、総合馬術のスペイン代表選手として、ヘルシンキ・オリンピックに出場した。また、1960年にもローマ・オリンピックに出場している。1964年にはヨーロッパの馬術競技会で優勝するなど、彼は優れた馬術選手だった。


 アルブルケルケ公は競馬にも参加した。平地のレースだけでなく、障害レースにも参加した。騎手としての初勝利はシリンガ号(Syringa)であげた。障害競走の初勝利は、1948年のエルガーリョ号(El Gallo)だった。1950年代は平地で27勝、障害で49勝をあげ、60年代は平地で46勝、障害で54勝という成績を残した。


 平地競走における最高の栄誉は、1968年にテバス号(Tebas)で優勝した第68回マドリード大賞である。テバス号はアルブルケルケ公自ら生産、所有、調教した牝馬である。このマドリード大賞は「史上もっとも呆然とさせられたマドリード大賞」として歴史に刻まれている。理由は2つある。1つ目は、テバスは前走で障害競走を走っていたこと。2つ目は、規定の負担重量は49kgだったのだが、アルブルケルケ公は背が高く、その斤量で乗るのは土台不可能であり、11.5kgオーバーの60.5kgで出走したこと。ゆえに、単勝オッズは1/155という超人気薄だったらしい。


■ マドリード大賞を勝ったテバスとアルブルケルケ公を描いた作品


写真:Botán https://twitter.com/botanfotografos/status/1382985897596043264

 アルブルケルケ公はスペイン・リーディングを獲得したことがない。マドリード大賞もこの1回だけである。前述のクラウディオ・カルデルやロマン・マルティンといった名ジョッキーと比べると、実績においてはるかに劣る。爵位持ちのオリンピアンではあったものの、レース名になるほどの騎手には思えない。


 にもかかわらず、なぜアルブルケルケ公が20世紀後半のスペインを代表する騎手の1人と称されるのか? それは、彼がある偉業を成し遂げたからである。


 1952年、ヘルシンキ・オリンピックに出場する前、アルブルケルケ公はブラウンジャックⅢ号(Brown Jack III)に騎乗して、イギリスのビッグレースに出場した。8歳のときにニュース映画を見て以来、出場することを夢見ていたその競走こそ、世界一過酷な障害戦とも言われる『グランド・ナショナル』である。アルブルケルケ公は、グランド・ナショナルに騎乗した史上初のスペイン人騎手として歴史にその名が刻まれている。


※補足

1950年に11代目ポルターゴ侯アルフォンソ・カベサ・デ・バカ・イ・レイトン、通称アルフォンソ・デ・ポルターゴというスペイン人貴族がグランド・ナショナルに騎乗したが、彼の本職は騎手ではなく、フェラーリ所属のレーシングレーサーだった。


 その後も、1963年にホンホ号(Jonjo)、1965年にグルームズマン号(Groomsman)、1966年にランペルール号(L’Empereur)、1973年、74年、76年にネレオ号(Nereo)で、計7度もグランド・ナショナルに出走した。1966年のグランド・ナショナルまでに、アルブルケルケ公は度重なる落馬によって脊椎を含む計22ヶ所を骨折していたが、負傷のたびに元気に復帰したため、イギリスでは「鉄人公爵(Iron Duke)」と呼ばれて尊敬された。また、あまりにも落馬や怪我を恐れないものだから、「神風パイロット」とあだ名する者もいた。念のため言っておくが、彼は超名門貴族の当主である。


 7回の出場の中でもっとも素晴らしい結果は、55歳になった1974年に訪れた。ネレオ号に騎乗して初めてグランド・ナショナルを完走し、名馬レッドラム号(Red Rum)の8着に入ったのである。しかも、アルブルケルケ公は直前のレースで落馬して鎖骨を骨折しており、大怪我を抱えながらの完走だったのだから、尋常ではない精神力の持ち主である。


「わたしは最悪のコンディションのときに最高の結果を残した。生き物は憐れな状況になれば、死に物狂いで何でもやるということだ」と、アルブルケルケ公は振り返った。


■ グランド・ナショナルに参加するアルブルケルケ公。奥の22番がネレオ


写真:Racing Post https://www.racingpost.com/news/aintree-classics/if-he-didnt-want-to-listen-to-you-he-suddenly-wouldnt-remember-any-english/114895

 1976年、57歳で迎えたグランド・ナショナルが最後の出場となった。三度ネレオ号とコンビを組み、道中は軽快な走りで先頭集団を形成したが、落馬により競走中止。アルブルケルケ公は後続の馬に巻きこまれ、肋骨を7本、脊椎を7ヶ所、右手首、右大腿骨を骨折、脳震盪という重傷を負い、昏睡状態で集中治療室に運ばれた。幸いにも回復したが、翌年、イギリスのジョッキークラブは安全を考慮してアルブルケルケ公の騎手免許を取り消した。これにアルブルケルケ公は憤慨した。「わたしの身体であり、わたしの馬であり、わたしが全責任を負えばいいのだ」と、取り消しに抗議した。だが、判断は覆らなかった。この年、彼は観客席からグランド・ナショナルを観戦し、「人生でもっとも悲しい1日だ」と落胆した。


 しかし、スペインでの騎乗は続けられた。アルブルケルケ公は1984年、65歳までレースに騎乗している。引退レースとなったのは1984年11月、マドリード大賞を勝ったテバス号の孫であるラピスタ号(La Pista)で障害レースに騎乗し、見事勝利をおさめた。1989年には、コパ・デ・オロという平地のビッグレースで騎乗するプランもあったが、さすがに家族に止められたそうだ。引退後は主に生産者、馬主としてスペイン競馬に携わった。


 約40年にもなる騎手人生で、アルブルケルケ公はマドリード大賞を勝ち、グランド・ナショナルを完走し、オリンピックに出場した。スペイン人騎手としてやれることをすべて成し遂げた。だが、代償は小さくなかった。落馬による骨折は50ヶ所以上、大腿骨は左右合わせて16度も骨折した。アルブルケルケ公以上に「鉄人」の称号が似合う騎手は、世界中を見渡してもいないだろう。


 1985年、スポーツで優れた業績を残した人物に与えられるメリト・デポルティーボというスペインの勲章が、アルブルケルケ公に授与された。1993年には、スペイン王国最高位の騎士団勲章である金羊毛騎士団が授けられた。この勲章の授与者には、イギリスのエリザベス女王や日本の明仁上皇の名もある。彼は特級の馬乗りであり、特級の貴族だった。


 1994年2月8日、アルブルケルケ公はマドリードで亡くなった。爵位は息子のフアン・ミゲル・オソーリオ・イ・ベルトラン・デ・リスが継承した。彼もまた、生産者であり、馬主であり、調教師である。2019年、スペインのダービーにあたるビリャパディエルナを勝利したのは、現アルブルケルケ公が生産、所有、調教したアクシオコ号(Axioco)だった。アルブルケルケ公の馬への情熱は、爵位と共にこれからも連綿と受け継がれていく。


 アルブルケルケ公は一流貴族らしく非常に知的で、紳士的で、人々のお手本として尊敬された。スペインの著名な記者であるハイメ・ペニャフィエルが書いたように、スペインの競馬ファンは、落馬して大怪我を負っても決して倒れなかったアルブルケルケ公を、敬意を込めてこう呼ぶ。


 スペイン最後の騎士。


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木下 昂也(Koya Kinoshita)

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