
木下 昂也(Koya Kinoshita)
ディエゴ・マラドーナ、あるいは競馬への情熱
ディエゴ・アルマンド・マラドーナが心臓発作のため亡くなった。60歳だった。フットボール界におけるマラドーナの功績を今さら語る必要はない。世界一の選手、そして、ワールドカップ・チャンピオンと言うだけ充分である。
しかし、競馬界におけるマラドーナの活躍に関しては意外と知られていない。そこで今回は、マラドーナと競馬の関係を簡単に紹介する。アルゼンチンの国民的英雄、世界でもっとも有名なアルゼンチン人はGⅠ馬主でもあった。
マラドーナは幼少期に馬が走っているのを見て以来、自分で馬を所有することを夢見ていたらしい。彼は馬を「地球に存在するもっとも美しい動物」と称していた。その夢を叶えたのは1989年、29歳のときである。
1989年11月7日、ディエゴ・マラドーナはブエノスアイレスにあるルナ・パークという競技場で、クラウディア・ビジャファーニェさんと盛大な結婚式を挙げた。たくさんのプレゼントが贈られたが、そのうちの1つがエクトル・デル・ピアーノというサラブレッドの生産者から贈られた馬だった。カンペーロ産駒の2歳牝馬。マラドーナはこの馬をダルマネレア(Dalma Nerea)と名づけた。馬主マラドーナの第1歩である。
マラドーナは「ラ・ボンボネーラ(La Bombonera)」という名義で馬主業に加わった。ラ・ボンボネーラとは、彼が所属していたボカ・ジュニアーズのホーム・スタジアムの愛称である。勝負服も青地に黄色のラインと、ボカ・ジュニアーズのユニフォームの色を採用した。マラドーナがいかにボカを愛していたかがうかがえる。
1991年4月17日、ダルマネレアはサン・イシドロ競馬場の芝1000mのレースでデビューした。だが、結果は10着と奮わず。結局、ダルマネレアはこの1戦のみで引退し、繁殖牝馬となった。しかし、ダルマネレアとの出会いがマラドーナにとってどれだけ重要であったか、後に明らかとなる。
馬主としての初勝利は1992年1月18日。ミドリ(Midri)というボールドセコンド産駒の牡馬で、サン・イシドロ競馬場芝1000mのレースを制した。戦前、「ミドリは俺の馬だが、俺は乗れないから、バルディに乗ってもらうっよ」と言ったように、初勝利の鞍上はホルヘ・バルディビエーソ騎手が務めた。バルディビエーソは「競馬界のマラドーナ」とも称される最高のアルゼンチン人騎手の1人であり、マラドーナの友人でもあった。バルディビエーソは他の馬主との騎乗契約とぶつからなければ、ラ・ボンボネーラ所有の馬に乗った。
1992年10月25日、ダルマネレアに初仔が誕生した。カポマキシモを父に持つこの牡馬はディエゴール(Diegol)と名づけられた。馬名の由来はもちろん「ディエゴ+ゴール」である。
1997年11月18日、ディエゴールはラ・プラタ競馬場で行なわれたGⅠホアキン・V・ゴンサーレス(ダート1600m - 3歳以上)に出走した。これまで重賞勝ちはなく、単勝オッズは15頭中13番人気だったが、道中はラチ沿いの好位で脚を溜めると、直線突き抜けて2着に3馬身差をつける快勝をおさめた。ディエゴ・マラドーナは、結婚祝いで贈られた馬の子供で見事にGⅠ馬のオーナーになったのである。
なお、この日マラドーナは競馬場にいなかったが、翌日ディエゴールを管理するホルヘ・マヤンスキー・ニール調教師とアサード(バーベキュー)を楽しんだそうだ。
■ GⅠホアキン・V・ゴンサーレス
1998年9月23日には、フィッツカラルド産駒の牡馬ペルスアシーボフィッツ(Persuasivo Fitz)でGⅢペドロ・チャパーを優勝している。
マラドーナは2001年まで馬主として活動した。最終出走は2001年12月16日ラ・プラタ競馬場12R(ダート1100m)に出走したニコ(Nico)で、見事に勝利をおさめた。ニコはダルマネレアの最後の産駒である。ラ・ボンボネーラが所有した馬と成績は以下の通り。
■ ダルマネレア(Dalma Nerea) 1戦0勝
■ ミドリ(Midri) 23戦4勝
■ ダルジアン(Dalgian) 1戦0勝
■ レチュソン(Lechuzón) 2戦0勝
■ パンクスタイル(Punk Style) 1戦0勝
■ ディエゴール(Diegol) 26戦6勝(GⅠ1勝)
■ ヘニオアン(Genioan) 1戦0勝
■ ノブ(Nob) 12戦0勝
■ ペルスアシーボフィッツ(Persuasivo Fitz) 13戦4勝(GⅢ1勝)
■ バボーア(Babour) 2戦0勝
■ ミステルクアドロ(Mister Cuadro) 2戦0勝
■ ムイエナモラーダ(Muy Enamorada) 11戦2勝
■ ニコ(Nico) 6戦2勝
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通算成績:101戦18勝(GⅠ1勝、GⅢ1勝)
※アルゼンチン・スタッドブックを参照。
マラドーナは馬主としてではなくても競馬場に姿を現した。たとえば、1996年11月9日にパレルモ競馬場で行なわれたGⅠナシオナル(アルゼンチン・ダービー)。このレースではレフィナードトム(Refinado Tom)という馬がアルゼンチン3冠を達成したが、優勝トロフィーを鞍上のホルヘ・バルディビエーソ騎手に授与したのがマラドーナである(写真)。また、UAEで監督をしているときには、ドバイ・ワールドカップを生観戦している。彼の馬に対する愛情、競馬に対する情熱は本物だった。
マラドーナはフットボール選手というだけではない。マラドーナの死を悲しんでいるのはフットボール・ファンだけではない。マラドーナのアルゼンチン競馬界における存在感は強く、多くの競馬関係者がマラドーナと知り合いだった。彼らは国民的英雄の、フットボールの大スターの、そして、競馬仲間の死を悼んでいる。
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【参考】 "Murió Diego Maradona, un amante de los caballos" https://elturf.com/noticias-ver?id_articulo=32166 最終閲覧日:2020年11月26日
"Diego Maradona , dejó de ser el crack para convertirse en leyenda " https://www.turfdiario.com/diego-maradona-dejo-de-ser-el-crack-para-convertirse-en-leyenda/ 最終閲覧日:2020年11月26日
"Diego Maradona y la década ganada con los caballos: éxitos, anécdotas y nombres curiosos" https://www.lanacion.com.ar/deportes/turf/diego-maradona-caballos-anecdotas-nombres-nid2326892 最終閲覧日:2020年11月26日
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