• 木下 昂也(Koya Kinoshita)

伝説の女性騎手:マリーナ・レスカーノ

 その国のリーディングを獲得した女性騎手はいる。通算何千勝とあげた女性騎手もいる。しかし、3冠を制覇した女性騎手は世界に1人しかいない。それが、アルゼンチンのマリーナ・レスカーノ(Marina Lezcano)である。


 マリーナ・レスカーノについて書く前に、イリネオ・レギサーモ(Irineo Leguisamo)という騎手について少し紹介したい。


 イリネオ・レギサーモは1903年10月20日生まれのウルグアイ人である。弱冠13歳でウルグアイのサルト競馬場で見習い騎手としてデビューした。着実に勝ち星を積み重ね、1922年、レギサーモが18歳のときに拠点をアルゼンチンに移した。以降、1974年に騎手を引退するまで、12734騎乗3204勝(※アルゼンチンのみの成績)、1923年から1936年まで14年連続リーディング、計21回のリーディング獲得、GⅠカルロス・ペジェグリーニ10勝、GⅠナシオナル(アルゼンチン・ダービー)5勝、GⅠジョッキークルブ7勝、GⅠポージャ・デ・ポトランカスおよびポージャ・デ・ポトリージョスを合わせて18勝という、とてつもない成績を残した。「20世紀の南米競馬界でもっとも偉大な騎手」とも称されている。


 レギサーモは、かつてこのように述べた。


「女が良い騎手になれるなんて思っていなかった。しかし、テレスコーピコのカルロス・ペジェグリーニを見て、そんな考えはまったく馬鹿げていると思い知らされた」


 1978年のカルロス・ペジェグリーニを優勝したテレスコーピコ号に乗っていたのは、マリーナ・レスカーノという女性騎手であった。


 マリーナ・レスカーノは1957年1月5日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスにあるローマス・デ・サモーラ地区で生まれた。父親は本の販売人で、母親は英語とフランス語の教師という競馬とは無縁の家庭だった。母親の勧めでマリーナは幼いころからピアノとギター、英語を習っていた。レスカーノ家は中産階級に属していたことが分かる。


 レスカーノ家はサン・ビセンテ地区にある農場に引っ越した。ある日、マリーナは学校の通学路で、タニータという名の芦毛の混血馬と出会った。彼女はすっかりタニータに心を奪われ、両親にしつこくタニータが欲しいとねだった。すると、父親が誕生日プレゼントとしてタニータを買ってくれた。これが騎手マリーナ・レスカーノの第一歩である。


 14歳のときには、クアドレーラスと呼ばれるアルゼンチンの草競馬で騎手をするようになっていた。マリーナは家族にプロの騎手になりたいという夢を打ち明けた。そのときの母親の死にそうな顔は今でも忘れられないと彼女は言う。


 騎手になることを決めたマリーナだが、大きな壁にぶつかることになる。彼女はラ・プラタ競馬場の競馬学校に入学しようとした。しかし、入学を断られた。当時、アルゼンチンでは女性が競馬場のコースに入ることが禁止されており、競馬学校には男性しか入学できなかったのである。


 しかし、入学を拒否されてまもなく競馬の規則が変わり、女性は女性騎手同士のレースならば参加可能という条件付きで騎手になることを認められた。さらにその後、女性騎手でも男性騎手に混ざってレースに乗れるように規則が改訂された。


 マリーナ・レスカーノはアルゼンチン競馬史上初の女性騎手の1人として、サン・イシドロ競馬場の競馬学校に入学した。同期には9名の女性騎手がいた。尊敬する騎手として、チリ人騎手のエドゥアルド・ハラ(Eduardo Jarra)の名を挙げている。イリネオ・レギサーモの次にアルゼンチン競馬界を席巻した名騎手である。


 面白い偶然がある。「競馬界のマラドーナ」、「史上最高のアルゼンチン人騎手」と称されるホルヘ・バルディビエーソ(Jorge Valdivieso)も、マリーナ・レスカーノと同じ1957年生まれであり、彼女と同時期にサン・イシドロ競馬場の競馬学校に入学した。アルゼンチン人男性騎手No.1と女性騎手No.1が同時に誕生するとは、優秀な人材というのは同じ時期に固まって輩出されるものなのかと思わずにはいられない。


 1974年12月15日、17歳のとき、マリーナ・レスカーノはパレルモ競馬場のダート1000m戦でサンディショー号(Sandie Shaw)に騎乗して騎手デビューを果たした。このレースは8頭立てで、騎手は全員女性騎手だった。これは前述の規約のためである。結果は2着。勝ったのはイサベル・デスバルド騎手(Isabel Desvard)のアテネア号(Atenea)だった。


■ デビュー戦



 デビューから4日後の12月19日、マリーナは再びサンディショー号に騎乗し、2着に半馬身差をつけて初勝利をあげた。この後、彼女に思わぬ幸運が訪れる。アルゼンチンの名門フアン・ビアンチ厩舎(Juan Bianchi)の主戦騎手に指名されたのである。ビアンチ調教師は、まだ女性騎手に対する差別や偏見の強かったこの時代において、あえて女性騎手を主戦として起用することで、アルゼンチン競馬界での女性進出の礎を築いた。彼は2020年5月7日に86歳で亡くなった。


 1976年、パトロン号(Patrón)で通算60勝を達成し、見習い騎手からプロ騎手に昇格した。公式プロフィールでは、身長151センチ、体重44キロ。体重管理に苦労はなく、45キロから62キロの斤量まで対応することができた。


 同年10月3日、マリーナ・レスカーノが19歳のとき、ビアンチ厩舎のセルシェンス号(Serxens)に騎乗して、アルゼンチンのダービーに相当するGⅠナシオナルを制した。もちろん、1884年に始まった同競走の歴史において、初めての女性騎手による優勝である。バルディビエーソのダービー初制覇が1979年のアセルティホ号(Acertijo)なので、彼より3年早くダービージョッキーの称号を手にした。アルゼンチンといえばタンゴが有名だが、この快挙を祝して『ムニェーカ・デ・オロ(金の人形)』という、マリーナ・レスカーノに捧げるタンゴが作詞作曲された。


■ ムニェーカ・デ・オロ



 「ムニェーカ(人形)」というのは、メディアがつけたマリーナ・レスカーノのあだ名である。しかし、どうしてムニェーカと呼ばれるようになったのか、本人は知らないそうだ。「マンサニータ(小さなリンゴ)」と呼ばれたこともあったが、こちらのほうは、いつも頬を赤らめていたからだろうと述べている。マリーナをはじめとする女性騎手の活躍によって、これまで男の世界とされていた競馬場に多くの女性ファンが訪れるようになった。


 1977年、ビアンチ調教師の管理馬シパーヨ号(Cipayo)で、アルゼンチン3冠競走の第1戦GⅠポージャ・デ・ポトリージョスを制覇した。彼女はその後も、フィッツカラルド(Fitzcarraldo)、バジャコア(Bayakoa)、フォートデフランス(Fort de France)、バボール(Babor)、ファーストムーン(First Moon)といったアルゼンチン競馬史に名を刻む競走馬に騎乗してGⅠを優勝している。


■ バボール号に騎乗して優勝した1980年GⅠコパ・デ・オロ



 1978年、マリーナが21歳のとき、フアン・ビアンチ厩舎に1頭の良血馬が入厩した。1975年10月20日産まれの牡馬。父はセントサイモン系のテーブルプレイ号(Table Play)、母のフィリピーナ号(Filipina)は現役時代に11戦2勝という成績を残した。母父フォメント号(Fomento)は1957年のカルロス・ペジェグリーニを勝ったアルゼンチン産馬で、父系をさかのぼるとエクリプスにたどり着くが、ファラリスもセントサイモンもハンプトンも介さないという珍しい血統の持ち主である。全兄テレフォニコ(Telefónico)はGⅠポージャ・デ・ポトリージョスとGⅠサン・イシドロを制し、全姉ターバ(Taba)もアルゼンチン最優秀2歳牝馬に選出され、引退後はアメリカに渡ってターコマン号(Turkoman)の母となった。その良血馬の名前をテレスコーピコ(Telescópico)という。


 テレスコーピコのデビュー戦は3着、2戦目は2着と、期待されたようなスタートは切れなかった。しかし、3戦目のマイル戦で2着に15馬身もの差をつける圧勝をおさめ、3冠競走の有力馬として名乗りをあげた。1冠目ポージャ・デ・ポトリージョスをノーステッキで半馬身差、2冠目ジョッキークルブと3冠目ナシオナルも半馬身差で勝利し、見事に3冠馬となった。マリーナ・レスカーノはセルシェンス号に続いて2度目のアルゼンチン・ダービー制覇。そして、世界初の、かつ、唯一の3冠女性騎手となった。


 テレスコーピコとマリーナ・レスカーノの勢いはこれで止まらない。1978年11月5日、アルゼンチン4冠をかけて南米の凱旋門賞とも呼ばれるカルロス・ペジェグリーニに出走した。このレースには同じビアンキ厩舎所属で、彼女にダービージョッキーの称号をプレゼントしたセルシェンス号も出走していた。しかし、蓋を開けてみれば、テレスコーピコは2着のセルシェンス号に18馬身もの大差をつける楽勝を披露した。アルゼンチン競馬史上10頭しかいない4冠馬が誕生した。以来、4冠馬は誕生していない。なお、アルゼンチン4冠はイリネオ・レギサーモもホルヘ・バルディビエーソも達成していない。


■ 4冠達成後のインタビュー



 マリーナによると、テレスコーピコは落ち着きがあり、賢く、まったく手のかからない馬だったそうだ。レースの日が近くなると、自分で飼い葉を食べる量を調整して身体を作っていた。彼女はテレスコーピコのそばにいるときはいつも歌を歌っており、そうするとテレスコーピコの機嫌が良くなったという。レースでは鞭が嫌いで、鞭を打たれるとかえって減速した。


 翌年、テレスコーピコはヨーロッパ遠征を行なったが、思ったような成績はあげられなかった。伊GⅠローマ大賞の2着が最高成績である。1980年にアルゼンチンに帰国すると、GⅡホセ・ペドロ・ラミーレスを制し、それが最後の勝ち星となった。通算成績は16戦9勝。引退後はブラジルで種牡馬入りしたが、種牡馬としては活躍できず、1987年に亡くなった。


 テレスコーピコの引退後もマリーナ・レスカーノは順調に騎手人生を歩んだ。1982年にアヒガンタード号(Agigantado)でGⅠ2000ギニー、同年10月10日にはフォートデフランス号でジョッキークルブを優勝した。このときの芝2000mの走破タイム1分57秒1は、当時の世界レコードだった。彼女は、自分が乗った中でもっとも強い馬はテレスコーピコだったが、もっとも速い馬はフォートデフランスだったと述べている。


■ フォートデフランス号に騎乗して優勝した1982年GⅠジョッキークルブ



 1984年3月10日、チリのチレ競馬場で行なわれた競馬の南米選手権GⅠラティーノアメリカーノにエルアセソール号(El Acesor)で出走し、女性騎手として初めて同レースに騎乗した。結果は地元チリのハイマスター号(High Master)の5着に敗れた。


■ 1984年GⅠラティーノアメリカーノ



 マリーナ・レスカーノは妊娠を機に引退を決意した。夫はウーゴ・グティエレス調教師で、3人の子宝に恵まれることになる。最終レースは1989年4月30日、マグネティカ号(Magnética)に騎乗して12着だった。通算勝利数は611勝。これは2016年にルクレシア・カラバハル騎手(Lucrecia Carabajal)に抜かれるまで、アルゼンチンの女性騎手最多勝利記録であった。この記録について彼女はこう述べている。


「いたって普通の家庭に生まれた少女が、ホッケーとラグビーの町として有名なローマスで生まれた少女が、パレルモ競馬場とサン・イシドロ競馬場で戦い、しかもこんな成績を残せるなんて、誰も想像しなかっただろう」


 夫が調教師であることもあり、マリーナ・レスカーノは引退後も競馬から離れていない。彼女にとって馬は幼いころから人生の一部であり、夫との会話も、会話の始まりはいつも他愛のないことなのに、終わるときはいつも馬と競馬の話題になっているそうである。2005年にウルグアイでインバソール号(Invasor)が出てきたときは、「これまで見てきた馬の中で、インバソールがもっとも素晴らしい馬だと思う」とコメントしている。


 2009年2月15日から2010年6月6日までの短い期間、ラ・プンタ競馬場で調教師となった。また、2009年3月13日からはラ・プンタ競馬場の競馬学校の指導教官に就任した。彼女の教え子には、ラウタロ・バルマセーダ(Lautaro Balmaceda)とエドゥアルド・ルアルテ(Eduardo Ruarte)がいる。


 バルマセーダは2011年