• 木下 昂也(Koya Kinoshita)

競馬好きな若者よ、スペイン語を学べ!

スペイン語話者の急増


 セルバンテス文化センターという組織をご存じだろうか? スペイン語教育、および、スペイン語圏文化の普及を目的として、1991年にスペイン政府が創設した施設である。世界中に支部を持ち、いまや4つの大陸で70以上のセンターが開設されている。日本では東京の四谷に支部がある。スペイン語教室や図書館、ホールだけでなく、最上階には本格的なスペイン料理を堪能できるレストランまで備わっている。東京のセルバンテス文化センターは世界最大規模だそうだ。


 セルバンテス文化センターが2020年に発表した年報には、スペイン語話者に関する現状と予測が書かれている。それによると、スペイン語を母語とする人は世界に約4億8900万人いる。これは中国語に次いで世界第2位の数字だという。母語ではないがスペイン語を話せる人を含めると、その数は5億8500万人にも達する。これは世界人口の7.5%に相当し、英語、中国語に次いで世界第3位である。


 セルバンテス文化センターの予想では、これからの50年間でスペイン語話者はますます増加する。2050年には世界人口の7.7%がスペイン語話者になるという。これでも充分な数字だが、2013年の年報では計9億人、世界人口の約10%という試算が出されていたので、だいぶ下方修正されたほうである。そして、2068年には世界のスペイン語話者が7億2400万人におよぶそうだ。


 興味深い予測がある。2060年、世界最大のスペイン語話者国はメキシコであるが、2位はアメリカだというのである。ご存じのように、アメリカは英語の国であり、アメリカ人は英語を話すというのが一般常識だ。なぜアメリカでスペイン語話者が急増するのか?


 鍵はヒスパニックにある。ヒスパニックとは、スペイン語を母語とする中南米出身者やその子孫でアメリカに居住する人々のことである。2060年には、アメリカの総人口の27.5%がヒスパニックになるそうだ。2019年に国連が発表した世界人口予測では、2050年におけるアメリカの人口を3億7942万人と推計しているので、アメリカに居住する約1億人がスペイン語話者という計算になる。実は、これはさほど驚くべき現象ではない。2021年現在においても、アメリカでまったく英語を使わずにスペイン語だけで生活を送るのはそれほど難しいことではない


 セルバンテス文化センターの数字はあくまで予測にすぎない。毎年のように異なる試算が出されるし、世界情勢が変われば数値もガラっと変わるだろう。だが1つ確かなことは、世界のスペイン語話者はこれから確実に増えるということである。それも世界の中心アメリカにおいて。同時に、スペイン語を学ぶ価値もますます高まっていく。



MLB とスペイン語


 アメリカでスペイン語話者が増加していることを顕著に示す例が野球界である。


 今年4月、メジャーリーグベースボール(以下:MLB)は開幕戦における出場登録選手の国籍別データを発表した。登録選手は906名おり、そのうち256名(約28.3%)がアメリカ国外で生まれた選手である。上位5ヶ国は、98名でドミニカ、64名でベネズエラ、19名でキューバ、18名でプエルトリコ、11名でメキシコと、スペイン語圏が独占した。6番目には10名でカナダが入る。


 MLBのロッカールームは、もはやスペイン語が公用語といっても過言ではない。ブラディミール・ゲレーロ・ジュニアはカナダとドミニカの二重国籍だが、オールスターのMVP受賞インタビューをスペイン語で答えたのは記憶に新しい。彼の母語はスペイン語である。ダルビッシュ有とチームメイトのフェルナンド・タティス・ジュニア、大谷翔平とホームラン競争で戦ったフアン・ソト、元チームメイトで殿堂入り間違いなしのアルベルト・プホルスはドミニカ人である。世界最高のキャッチャーとも称されるジャディエル・モリーナはプエルトリコ、デトロイト・タイガースに所属する3冠王ミゲル・カブレーラはベネズエラと、スペイン語を母語とするMLBのスター選手は枚挙にいとまがない。


 野球界でスペイン語がどれだけ繁栄しているかは、日本の野球を見ても分かる。アレックス・ラミレスはベネズエラ、ネフタリ・ソトはプエルトリコ、レオネス・マーティン、リバン・モイネロ、アルフレード・デスパイネはキューバ、ジェフリー・マルテはドミニカの出身である。各球団にはスペイン語の通訳がいるだけでなく、スペイン語圏の国にスカウトやアカデミーを置いている球団もある。


 野球以外のスポーツも簡単に見てみよう。


 フットボールの世界でもスペイン語勢力は強い。スペイン人プレイヤーはヨーロッパの強豪チームに多数所属している。メッシ、アグエロ、スアレスといった南米のスター選手もビッグクラブで主軸を担っている。過去も含めれば、数えきれないぐらいのスペイン語を母語とするスター選手がいる。アンドレス・イニエスタが日本にいることも忘れてはいけない。日本の海外サッカーファンがスペイン語を学びたがるのは、フットボール界でスペイン語が優勢であることの証拠だろう(海外サッカーが好きだからドイツ語を勉強したい、フランス語を勉強したいという声はめったに聞いたことがない)。


 他の競技においても、スペイン語を母語とする有名選手は多数いる。そうしたビッグネームは、引退すれば指導者になる場合が多い。かつてフットサルの日本代表監督だったミゲル・ロドリゴはスペイン人であり、現バスケットボール男子日本代表のフリオ・ラマスはアルゼンチン人である。


 このように、スポーツ業界で働きたい、何らかの形でスポーツ界に携わりたいと思うのなら、スペイン語を理解できることは有利である。



アメリカ競馬とスペイン語


 では、競馬界とスペイン語の関係はどうだろうか? 以下は今年のケンタッキー・ダービーに参加した騎手と出身国である。


■ J. ベラスケス:プエルトリコ

■ F. ジェルー:フランス

■ F. プラ:フランス

■ L. サエス:パナマ

■ M. ペドローサ:パナマ

■ M. スミス:アメリカ

■ D. コーエン:アメリカ

■ J. ルパルー:フランス

■ I. オルティス:プエルトリコ

■ J. カステリャーノ:ベネズエラ

■ C. ラネリー:アメリカ

■ D. ファンダイク:アメリカ

■ K. カームーシュ:アメリカ

■ R. ベハラーノ:ペルー

■ U. リスポリ:イタリア

■ R. サンタナ:パナマ

■ J. ロサリオ:ドミニカ

■ J. オルティス:プエルトリコ

■ T. ガファリオンアメリカ


 19名中、赤字にした9名がスペイン語を母語とする。その他、英語が6名、フランス語が3名、イタリア語が1名である。2019年の場合はスペイン語優勢がより顕著で、19名中11名がスペイン語、5名が英語、3名がフランス語だった。「スポーツでもっとも偉大な2分間」への参加者は、スペイン語を母語とする騎手がもっとも多い。


 上記以外にも、スペイン語を母語とする名騎手はたくさんいる。カリフォルニアクロームやアメリカンファラオの主戦を務めたビクトル・エスピノーサはメキシコ人。的場文男と通算の勝利数で競っているエドガー・プラードはペルー人。2019年のドバイGSを優勝したエックスワイジェットの主戦を務めたエミサエル・ハラミージョはベネズエラ人。ティズザローの主戦を務めたマヌエル・フランコはプエルトリコ人。アメリカで通算2000勝以上しているアントニオ・ガリャルドはスペイン人である。MLBと同じく、アメリカ競馬のジョッキールームではスペイン語が飛び交う。


 過去を振り返っても、通算9530勝のラフィット・ピンカイはパナマ人、初代フライング・ディスマウントをやった7000勝騎手アンヘル・コルデーロはプエルトリコ人、2007年に殿堂入りしたホセ・サントスはチリ人、2010年から2012年まで3年連続でエクリプス賞最優秀騎手に選出されたラモン・ドミンゲスはベネズエラ人である。「自国の競馬には自国出身の騎手が乗るべきだ!」日本では時折そんな声も聞かれるが、アメリカで言ったら鼻で笑われるだろう。


 なぜアメリカ競馬には中南米出身者が多いのか?


 中南米と日本は似たようなスポーツ事情である。人気のあるスポーツは、野球、サッカー、そして競馬である。とりわけ、ベネズエラはこの傾向が強く、たとえば『リデル(Líder)』というスポーツサイトの項目は、野球、バスケットボール、サッカー、競馬、その他のスポーツとなっている。ベネズエラ競馬の騎手や調教師のSNSには万単位のフォロワーがいる。


 人気のあるスポーツは競技人口が多い。競技人口が多いということは、特別な才能を持った人材が集まりやすい。したがって、優秀な職業人が輩出される。たとえばパナマは、自国を「世界最高の騎手のゆりかご(La cuna de los mejores jinetes del mundo)」と称し、国をあげて騎手の育成に力を入れている。中南米は名騎手が育ちやすい土壌である。


 しかし、中南米と日本では大きく異なる点がある。経済力である。どれだけ立派な成績を残しても、母国の競馬では満足に稼げない。アメリカの競馬で働いたほうが給料がいい。才能はあるので、アメリカでも優秀な結果を残せる。スター選手になれる。アメリカン・ドリームをつかめる。そうすると、母国の子供たちの憧れになる。子供たちは先人を追いかける。このような具合で、アメリカ競馬にはスペイン語話者がどんどん進出していった。中南米の若手騎手の夢は、ほぼ必ずと言っていいほどアメリカの競馬に参加することである。


 また、騎手だけでなく厩務員を含めると、アメリカ競馬における中南米出身者は数えきれない。現在のアメリカ競馬は中南米出身者がいなければ成り立たないかもしれない。競馬主催者や馬主は白人のアメリカ人だが、現場で馬を育て、馴らし、騎乗するのはヒスパニックという場合がある。


 この構図は競馬界だけに当てはまることではない。いまやヒスパニックの労働力なしではアメリカ社会が成り立たないとさえ言われる。極端なことを言えば、ウォール街のビジネスマンのワイシャツを洗うのは不法滞在のメキシコ人である。運営や管理、いわばホワイトカラーはアメリカ人