• 木下 昂也(Koya Kinoshita)

追悼:アルゼンチンで亡くなった女性騎手

写真: "La Nación"

https://www.lanacion.com.ar/deportes/murio-jocketa-maria-paganelli-luego-rodada-habia-nid2259122



カリーナ・ラチード(Karina Rachid)


 カリーナ・ラチードほど残酷な終わり方を迎えた騎手はいないだろう。彼女はラ・プラタ競馬場の競馬学校を卒業すると、2000年1月2日に見習い騎手としてデビューした。27歳でのデビューは早いとは言えないが、彼女は夢の第一歩を踏みだした。初騎乗はラ・プラタ競馬場13Rのダート1300m。ハッピーターノ号(Happy Tano)に騎乗して12頭立ての10着だった。


 初勝利は早くも1月6日に訪れた。ラ・プラタ競馬場4Rのダート1400mで、エルミロン号(El Miron)に騎乗し、13頭立ての4番人気ながら短クビ差で勝利をもぎとった。初騎乗からわずか5戦目での初白星である。


 2月1日に2勝目を、2月22日には1日2勝を達成、4月20日にも勝利し、デビュー4ヶ月で5勝は立派な成績である。同世代には、アルゼンチン女性騎手最多勝利記録を持つルクレシア・カラバハル、通算500勝以上のアンドレア・マリーニャスと、アルゼンチン競馬を代表する女性騎手が揃っており、カリーナ・ラチードも将来を嘱望された女性騎手の1人だった。


 悲劇は突然訪れた。


 カリーナは2002年7月2日のラ・プラタ競馬場11Rでメダージャガール号(Medalla Girl)に騎乗した。残り400m地点で、近くを走っていたホルヘ・オヘーダ騎乗のコーラルパレード号(Coral Parade)が、馬場にできた穴に躓いて転倒。コーラルパレード号がメダージャガール号に衝突し、カリーナも落馬に巻きこまれてしまった。彼女は頭と首を馬場に強打し、昏睡状態で病院に緊急搬送された。数日後に医師から脳死の判定を受け、事故から10日後に死亡が確認された。27歳。騎手になる夢を叶えてからわずか7ヶ月後の悲劇だった。


 アルゼンチン騎手会はこの事故が起こる前から、ラ・プラタ競馬場の馬場状態が劣悪であるため早急に整備するよう求めていた。オヘーダ騎手も「避けられた事故だった」と後に述べている。つまり、競馬場が真摯に対応していれば起こるはずのない落馬だった。管理運営上の怠慢が、将来有望な騎手の命を奪ったのである。カリーナ・ラチードの通算成績は79戦5勝。無事であれば、アルゼンチン競馬史に名を残す存在になっていた。このような悲劇のヒロインとしてではなく、一流の女性騎手として。


 話はこれで済まない。落馬の原因となってしまったオヘーダ騎手は肋骨を2ヶ所骨折したものの、幸いにも命に別状はなかった。しかし、この日の事故は彼の心に大きな傷を残した。オヘーダ騎手は通算1000勝以上、GⅠ競走を13勝もした名手であったが、間接的に同僚の命を奪ってしまった精神的なトラウマと責任に苛まれ、また以前より感じていた背中の痛みのこともあり、その日を最後に騎手を引退した。



マリーア・パガネッリ(María Paganelli)


 マリーア・パガネッリは、1999年5月29日にサン・イシドロ競馬場6Rの芝1600mで騎手としてデビューした。スピードクロッシング号(Speed Crossing)に騎乗し、結果は16頭立ての7着だった。初勝利をおさめたのは10月30日のサン・イシドロ競馬場8R。3番人気のモスコー号(Moscow)に騎乗し、1番人気サドック号の追い上げを3/4馬身差しのいだ。


 2003年11月10日、マリーアは騎手人生で最大の勝利をおさめる。パレルモ競馬場のダート2000mで行なわれたリステッド競走イリネオ・レギサーモを、バイザトライアル号(By The Trial)で制したのである。単勝オッズ46.00倍の最下位人気という低評価を覆しての勝利だった。2004年6月には落馬で腕と足首を骨折し3ヶ月の休養を強いられたものの、長きにわたって安定した騎手人生を送っていた。


 2019年6月10日、マリーア・パガネッリはパレルモ競馬場11Rのダート直線1100mでディスミラール号(Dissmilar)に騎乗した。しかし、ゴールまで残り150mというもっともスピードに乗ったところで馬が故障を発生。マリーアはサラブレッドの最高時速から真っ逆さまに地面に叩きつけられた。頸部、上半身、頭蓋骨に大きなダメージを負い、意識不明のままブエノスアイレスにあるバステリーカ病院へ緊急搬送された。不運なことに、身体でもっとも損傷を受けたのは脳だった。重度の外傷性脳損傷で、極めて危険な状況。事故から8日後の6月18日、マリーア・パガネッリは43歳でこの世を去った。前述のカリーナ・ラチード以来、アルゼンチンにおいて落馬事故で女性騎手が亡くなった2例目である。


 通算成績は1316戦81勝。亡くなる前の数年は父親のリカルドが所有する馬の調教を行ない、その馬でレースに出場することが多かった。マリーアは騎手であると共に母親でもあった。まだ幼い娘の名前はデルフィーナ。少女は最愛の母親を失った。


※落馬があったレースは以下のURL、"La Nación"というアルゼンチン大手日刊紙のページで閲覧することができます。閲覧は自己責任でお願いします。

https://www.lanacion.com.ar/deportes/murio-jocketa-maria-paganelli-luego-rodada-habia-nid2259122



ロレーナ・トーレス(Lorena Torres)


 ここまで2件の落馬事故による死亡例を紹介したが、最後は落馬により昏睡状態に陥りながらも奇跡の復活を遂げた女性騎手を紹介する。彼女の名をロレーナ・トーレスという。


 ロレーナは2006年9月15日にサン・イシドロ競馬場1Rで騎手としてデビューした。初勝利をあげたのは1ヶ月後の10月21日。サン・イシドロ競馬場13Rの芝1200mをマニアーカペイ(Maniaca Pay)で制した。競馬に対する姿勢や明るい人柄が気に入られ、アルゼンチンNo.1調教師であるフアン・エチェチュリー師の管理馬にも騎乗するなど、騎手として明るい未来が待っていた。


 はずだった。


 2007年7月18日、彼女はイタジュバー号(Itajubá)に騎乗してサン・イシドロ競馬場のダート1400mに出走し、落馬事故に見舞われた。落馬したのがコーナーだったため、後続馬に巻きこまれてしまった。彼女を含めて3頭が落馬した。ロレーナは病院に搬送されたが、頭を強く打って昏睡状態に陥った。容体は安定していたが、とうとう意識が戻ることはなかった。


 しかし、事故から10ヶ月後の2008年5月に奇跡が起こった。ロレーナ・トーレスが意識を取り戻したのである。5月13日には会話までできるようになった。彼女の担当医だったディエゴ・ダビデ氏は、「ロレーナの存在は奇跡は確かに存在すると信じさせてくれた」と驚きをもって述べた。彼女はリハビリを開始し、2009年11月には自力で歩けるようになり、ついに退院が認められた。事故から2年が経過していた。


 騎手としての復帰は断念せざるをえなかった。彼女自身も意識を取り戻してすぐに復帰は無理だと悟っていた。騎手人生は2006年9月から2007年7月までと1年にも満たない。しかし2010年10月12日、ロレーナ・トーレスはサン・イシドロ競馬場に帰ってきた。死の淵から這い上がってきた勇敢な者として、人生の模範者として彼女を称えるため、その日の12Rにロレーナ・トーレスと名づけられたレースが開催され、アルゼンチン・ジョッキークルブから招待を受けたのである。


「GⅠ競走に乗ってGⅠを勝つことを夢見ていた。それは叶わなかったけれど、こうしてわたしを競馬場に招待してくれた人々、祝福してくれたすべての人々に感謝したい。馬への情熱は決して失わない」と、彼女は表彰式で語った。




 スターホースが注目される。トップジョッキーが脚光を浴びる。芝生は鮮やかで、割れんばかりの歓声が響き、巨額の金が動く。競馬は華やかな世界である。しかし、そんな華やかさに目がくらむと、競馬が危険な競技であり、騎手は命がけであるということを忘れがちになる。高くはないかもしれないが、コンマ何秒で命が奪われる可能性が常にレースには潜んでいる。カリーナ・ラチード、マリーア・パガネッリ。そんな過酷な世界で戦い、いなくなってしまった勇敢な2人の女性を、たまにでいいから思い出したい。


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木下 昂也(Koya Kinoshita)

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