• 木下 昂也(Koya Kinoshita)

馬肉を食べない馬肉大国アルゼンチン

 アルゼンチン農林水産省の統計によると、アルゼンチンには250万頭前後の馬が登録されている。サラブレッドだけでなく、あらゆる馬種を含めてこの数字になる。2020年には269万6254頭が登録された。しかし、申告されていない頭数を含めれば、プラス100万頭になるとの指摘もある。アルゼンチンは世界有数の馬大国である。ちなみに、日本における馬の総飼養頭数は約7万5000頭である。


 世界有数の馬大国は、世界有数の馬肉大国でもある。2007年には3万3235トンもの馬肉が輸出され、8000万ドルの利益をもたらした。主な輸出先はフランス、オランダ、イタリア、ロシアといったヨーロッパで、日本でもアルゼンチン産の馬肉を買うことができる。


 しかし、ここ最近は不調にあえいでいる。以下の図から分かるように、2007年から2019年の間に輸出量は明らかな減少傾向にある。2017年にはモンゴルに抜かれ、馬肉輸出量No.1の座を失った。全盛期には3万トンを超えた輸出量は、2019年には半分となる1万7483トンにまで落ちこんだ。


 輸出が減った理由は主に2つあると考えられている。国際的な馬肉需要の低下と、国内生産力の低下である。肉用馬の登録頭数は、2010年の15万397頭から2019年の10万4905頭と、近10年でおよそ5万頭も少なくなった。アルゼンチン農林水産省によると、2020年は8万5287頭にまで減少し、骨を含めた生産量は1万9711トンにまで落ちこむという予測である。


 とはいえ、2007年から2019年までの平均輸出量は2万721トンと世界1位を維持しており、アルゼンチンが馬肉大国であるという事実に変わりはない。


こうも馬肉輸出が多いと、国内における消費もさぞ大きいのではないかと予想できる。しかし、アルゼンチン国内で馬肉を食べる習慣はない。正確に言えば、馬の肉は食べてはいけないものとしてタブー視されている。それはなぜだろうか?


 アルゼンチンの馬専門サイト『ノティ・カバージョス(NotiCaballos)』では、次のような興味深い歴史が紹介されている。


 19世紀初頭、南米ではスペイン王国からの独立運動が盛んになった。独立軍は戦場へ赴くために馬を使っていた。第2次世界大戦中の日本でも言われたように、馬は活兵器とみなされていた。


 アルゼンチン、チリ、ペルーの解放者として英雄視されている人物に、アルゼンチン人のホセ・デ・サン・マルティン将軍がいる。サン・マルティン将軍率いる軍隊は、チリとペルーの解放のため、アルゼンチンからアンデス山脈を越えようとしていた。山越えの環境は過酷で、凍死者や餓死者が出た。しかし、もっとも危惧されたのは、飢えた兵士が馬を食べ、軍隊の攻撃力が低下することだった。それを避けるため、アルゼンチンで馬を食べることを禁止する法律が出された。これがアルゼンチン人が馬肉を食べない、もしくは食べてはいけないとされる由来である。


 加えて、連綿と紡がれてきたアルゼンチン人の馬に対する意識も大きく影響している。アルゼンチン人にとって馬は高貴な生き物であり、人間のパートナーであり、食料の対象ではない。


 馬を食肉とみなすことへの拒絶が明確に形として現れたのは1974年である。この年5月に発令された政令1591号(Decreto Nº1591/74)で、12歳以下の雄と15歳以下の雌の馬種の動物をいかなる目的でも屠殺することが全国的に禁止された。実質の馬肉禁止令である。


 では、馬肉嫌いのアルゼンチンはいかにして馬肉大国になったのか?


 転機は1995年に訪れた。この年の8月に、法令24525号(Ley Nº 24.525)が公布された。題名は「消費を目的とした馬肉生産の促進と奨励(Promoción y fomento de la Producción de Carne Equina para Consumo)」である。この法律の第1項において、馬の肉や馬を利用した製品の生産、商業化、工業化、産業化を促進、奨励、発展させることは、国家的な優先事項であると宣言された。つまり、馬を食肉として利用することが、国によって認められたのである。


 しかし、法令24525号で馬肉の生産を奨励したとしても、政令1591号による屠殺の年齢制限もいまだに有効だった。肉の値段を上げるためには、若い馬の柔らかい肉を市場に提供する必要があった。


 この矛盾を解決するために1998年8月に公布されたのが、政令974号(Decreto Nº 974/98)である。この政令により、若い馬の屠殺を禁じた政令1591号が、馬肉の生産を促進する現在の政策と相容れず、輸出拡大の障害となっているとして廃止された。当時の大統領カルロス・メネム氏の名を取って「メネム法」とも呼ばれる。国内には馬があふれている。政府から完全なGOサインが出た。絶好のビジネスチャンスである。こうして、馬を食べることを禁じられていた国は、世界有数の馬肉輸出国へと発展を遂げたのである。


 だからといって、アルゼンチン人が馬肉を食べるようになったわけではない。政令974号が出た際には、「馬のように高貴で働き者である動物を食べるなんて信じられない」や「わたしは馬を愛している。食べるために殺すなんて野蛮だ」という反発があった。筆者の友人であるアルゼンチン人も、馬肉は絶対に食べないし、馬肉を食べる日本の習慣が信じられないと驚いた。馬を食べないことは、今なおアルゼンチン人のDNAに刻まれている。もちろん、好んで食べる者もいるだろうが。


 下り坂にいるアルゼンチンの馬肉産業が、このまま転がり続けるのか、それとも回復を見せるのか、今後に注目していきたい。しかし、国際的な馬肉需要が低下していること、動物愛護精神が高まっていること、国内消費を期待できないことなどから、相当な苦戦を強いられるのは間違いないだろう。


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木下 昂也(Koya Kinoshita)

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