• 木下 昂也(Koya Kinoshita)

オスバルド・ペジェグリーノ:油断騎乗で負けて自殺しようとした騎手

この記事は2022年6月11日にアルゼンチンの日刊紙『ラ・ナシオン(La Nación)』に掲載された "Festejó el triunfo en un Carlos Pellegrini antes de llegar al disco, lo perdió y estuvo a punto de suicidarse" を翻訳・一部改編したものになります。

 

1949年のカルロス・ペジェグリーニで、オスバルド・ペジェグリーノ騎手はペニーポスト(Penny Post)に騎乗してゴール前で数馬身のリードを保っており、歓声に応えようと帽子を脱いだ。次の瞬間、ペニーポストはクビ差で敗れた。この不名誉はペジェグリーノ騎手に一生ついて回った。


 ペニーポストは1949年のカルロス・ペジェグリーニ(芝3000m)で圧倒的1番人気に支持された。当時のアルゼンチン最強馬とみなされており、11月6日にサン・イシドロ競馬場で行なわれた国内でもっとも重要なこのレースには、6頭しかライバルが出走しなかった。


 ペニーポストを負かすのは不可能に思えた。3000mのほとんどを先頭で走り、最後の直線でスタンド前を通過したときにも数馬身のリードを保っていた。だが、奇妙な行動によって勝利は逃げていった。鞍上のオスバルド・ペジェグリーノ騎手は、ゴール板を通過する前にスタンドに向かって帽子を上げると、530kg近くあったペニーポストは失速し、追い込んできたクルスモンティエル(Cruz Montiel)にクビ差交わされてしまったのである。まったく信じられない。


 競馬場は混雑していた。スタンドの人混みを緩和するため、当局と警察の決定によって観客はコースの両脇に分散された。競馬場の雰囲気は、オスバルド・ペジェグリーノ騎手が目前に迫った最高の栄誉を逃すと、数秒のうちに大きな喜びから果てしない驚きへと変わった。前例のないこの出来事は、ペジェグリーノ騎手の一生について回ることなった。


 油断騎乗があったとして、ペジェグリーノ騎手には開催10日の騎乗停止が言い渡された。それだけでなく、彼がペニーポストの背中に跨ることは金輪際なかった。ペジェグリーノ騎手は自らのバカげた行為に打ちのめされた。一生に一度あるかないかという機会を逃したあの日の午後の重圧に耐えられず、自殺しようとするまでに至り、友人たちが必死に彼を止めなければならなかった。



 翌11月7日は『カニジータの日(Día del Canillita)※新聞・雑誌販売店を称える日』だったため新聞の発行はなく、レースの記事は2日後に出された。


「ペジェグリーノ騎手は帽子を脱いで目の前に迫った勝利を祝うことしか頭になかった。ペニーポストの騎乗を怠り、追うのをやめてしまった。クルスモンティエルに騎乗していたルベン・キンテーロス騎手はその隙を見逃さず、ゴール直前でペニーポストをクビ差で差し切った」と、アルゼンチンの日刊紙『ラ・ナシオン(La Nación)』には書かれている。キンテーロス騎手は騎手を辞めて調教師となり、すでに結果を残していたが、この年から騎手に復帰していた。


「ペニーポストへの支持は裏切られた。それはエンブルホ産駒のこの馬自身がレースをやめたからではなく、オスバルド・J・ペジェグリーノ騎手の怠慢によるものである。彼は最後まで騎手としての責任を果たさず、ラ・ヒラルダが所有する馬の騎乗を誤った。クルスモンティエルはペニーポストにいつも負けていたが、相手のミスに付け込み、ようやく勝利を手に入れた」と、当時の記者はまとめた。


 ペニーポストは1945年にチャパドマラル牧場で産まれた。1948年の3歳時には、パレルモ競馬場で行なわれたナシオナル(アルゼンチン・ダービー)を優勝した。1949年のカルロス・ペジェグリーニには、ペニーポストを負かしてやろうとウルグアイからルセイロ(Luzeiro)という有力馬が遠征してきた。だが、ペニーポストの2番手を追走するだけで力を使い果たしてしまった。その日、ペニーポストの単勝にはおよそ67万票も賭けられており、これはまだ発馬機も存在していない当時で類を見ない投票数だった。


 カルロス・ペジェグリーニから数ヶ月が経ち、1950年になった。ペニーポストはウルグアイのマローニャス競馬場で行なわれたウルグアイ最大の競走ホセ・ペドロ・ラミーレス(ダ3000m)に出走した。このときもペニーポストは奇妙な状況に置かれたが、今回はハッピーエンドで終わった。


 ペニーポストはスタートが悪く、新たに手綱を任されたエリーアス・アントゥネス騎手は、発走がやり直しになると確信して数メートル進んだところで馬を止めた。しかし、審判によって発馬は有効とみなされたため、最後方からの競馬を強いられた。レブロン(Lebrón)がゆったりとしたペースで先頭を走り、2番手にはカルロス・ペジェグリーニで大金星をあげたクルスモンティエルが続いた。


 ペニーポストはすぐに出遅れを挽回し、1週目のスタンド前で早くも先頭に躍り出た。替わって最後尾となったのは、カルロス・ペジェグリーニでは追走するだけに終わったイリネオ・レギサーモ騎乗のルセイロだった。追い込みはレギサーモ騎手の得意とする作戦で、レース終盤に向けて脚を溜めた。ルセイロは最後の直線でものすごい勢いで差を詰めたが、ペニーポストは半馬身差粘り切って勝利をおさめた。カルロス・ペジェグリーニで一泡吹かされたクルスモンティエルにも大きく離して先着した。


 ペニーポストは1952年に現役を引退した。オークションに上場され、アルゼンチンのエル・モーロ牧場で種牡馬入りすることが決まった。オークションを仕切ったアドルフォ・ブルリッチ氏(※現パレルモ競馬場会長のアントニオ・ブルリッチ氏の祖父)は、落札決定のハンマーを下ろした後に、「ペニーポストがアルゼンチンに留まるぞ!」と叫んだ。


 1958年末、ペニーポストは創設されたばかりのアウストラル航空の飛行機に乗り、まるでアイドルとのお別れであるかのように見送られてペルーへと旅立った。ペルーでの種牡馬生活は、競馬場で見せていた活躍とはかけ離れたものだった。


 ペニーポストはいくつもビッグレースを勝ったが、永遠に1度のバカげた敗北と共に思い出される。カルロス・ペジェグリーニでの敗戦である。


Carlos Delfino / La Nación



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