
木下 昂也(Koya Kinoshita)
スペインの名手ホセ・ルイス・マルティネスがシャーガーカップに選出される

写真:Hipódromo de La Zarzuela(@HipodromoMadrid) https://twitter.com/HipodromoMadrid/status/1463100014255689731
スペインのホセ・ルイス・マルティネス騎手がシャーガーカップに選出された。ランフランコ・デットーリ騎手、アントニオ・フレーズ騎手、レネ・ピーヒュレク騎手と共にヨーロッパ選抜を構成する。スペイン人騎手がシャーガーカップに選ばれるのは、2013年のイオリッツ・メンディサーバル騎手以来2人目である。
スペインには名騎手と称えられる人物が少なくとも5人いる。
1人目がビクトリアーノ・ヒメネス(Victoriano Jiménez)。まだスペインが王政時代だった1911年にデビューし、スペイン内戦を経て、フランコ独裁時代の1958年に64歳で引退するまで活躍した。スペイン・リーディングを6度獲得し、スペイン最大の競走マドリードは9回優勝した。
2人目がロマン・マルティン(Román Martín)。1960年代から1980年代にかけて有力馬主ピリャパディエルナ伯の主戦騎手として活躍し、レフィッシモ(Rheffíssimo)、エルパイス(El País)といった名馬の手綱を握った。リーディングを10度獲得し、マドリードの優勝は6回。引退後は調教師となり、調教師としても数々のビッグレースを勝利した。その功績を称え、毎年11月にはロマン・マルティンという最上位カテゴリーのレースが開かれる。
スペインの競馬ファンが満場一致で史上最高の騎手と認めるのが、クラウディオ・カルデル(Claudio Carudel)である。「レースを読める男」とまで言われ、イオリッツ・メンディサーバル騎手の憧れでもあった。1958年に19歳でデビューしてから1989年に50歳で引退するまで、あらゆるレースを勝ちまくり、6164戦1455勝という成績を残した。リーディング18回は史上最多、マドリードの優勝回数は驚異の12回を数える。引退後は調教師、競馬学校の教官、サルスエラ競馬場の顧問を務めた。サルスエラ競馬場には銅像が建てられ、また、クラウディオ・カルデルは上半期のスペイン・マイル王を決めるレース名となっている。
異色の経歴の持ち主が、ベルトラン・アルフォンソ・オソーリオ・イ・ディエス・デ・リベーラ(Beltrán Alfonso Osorio y Díez de Rivera)、通称13代アルブルケルケ公である。アルブルケルケ公については以前紹介したので、こちらを参照してほしい。ヨーロッパを代表する貴族でありながら、イギリス伝統のグランド・ナショナルを完走し、「スペイン最後の騎士」と称えられた。
ヒメネス、マルティン、カルデル、アルブルケルケ公に続くのが、今回ヨーロッパ選抜の一員としてシャーガーカップに選出されたホセ・ルイス・マルティネス(José Luis Martínez)である。彼は数々の異名と共に紹介され、尊敬されている。
21世紀スペインで最高の騎手
スペイン競馬の生ける伝説
スペインの騎手であり旗手
騎手界のリオネル・メッシ
競馬場のラファエル・ナダル(自身がナダルの大ファン)
マジック・マルティネス
ホセ・ルイス・マルティネスは1970年にスペインの首都マドリードで生まれた。動物が好きだったこととスポーツが好きだったことから、13歳のときに騎手を目指した。1983年、祖父に連れられてエミーリオ・セカ騎手学校に入学した。それまで一度も馬には乗ったことがなかった。
デビューは1986年10月12日、16歳のときだった。翌年2月24日、セビーリャにあるピネーダ競馬場でハベア(Javea)に騎乗して初勝利をあげた。
上述したロマン・マルティン調教師の下で騎乗技術を学んで頭角を現すと、1993年に自身初のスペイン・リーディングに輝いた。以降は95年、96年、00年、01年、02年、05年、06年、07年と計9度もリーディングを獲得し、クラウディオ・カルデルの後継者としての地位を確立した。
「朝5時か5時半に起きる。競馬場に行き、5時間かけて馬の世話や調教を行なう。その後、1時間か1時間半ほどジムで身体のメンテナンスをする。家に戻り、食事をとって、シエスタをする。起きてからはレースの研究をし、それが終わったら家事を手伝う。そんなルーティーンをデビューから今も毎日続けている」
長い騎手人生において、マジック・マルティネスは数えきれないほどの落馬事故に遭った。彼の身体には40本のボルトと7つのチタンプレートが埋め込まれている。
もっとも大きい落馬事故は2008年4月21日に起こった。脊椎を2ヶ所骨折し、医師から2度と馬には乗れないだろうと宣告された。セカンドオピニオンでも、手術をしても2年は復帰できないだろうとの診断を受けた。しかし、手術と懸命なリハビリにより、2年と言われた復帰期間を5ヶ月に縮め、同年9月4日に競馬場に戻ってきたのである。
早期復帰を果たしたものの、なかなか本来の状態には戻ってこられなかった。2009年と2010年は自分を信頼してくれる馬主や調教師の期待に応えられない恐怖を覚えるようになり、ついには自分自身を信頼できなくなったという。ホセ・ルイスは密かに引退を決意した。引退は家族と親しい友人にのみ明かされた。
これが最後の騎乗と決めた日、マジック・マルティネスは2勝をあげた。彼は引退を撤回した。「その日、自分が解放されたような気分になった。これまでの重荷や重圧がなくなった。昔の自分に戻れた」と、後に述べている。
「スポーツは勝ったり負けたりするが、勝ち負けを決めるのは常に己が手でなければならない」
2013年、ホセ・ルイスはスペイン産馬プランタジネット(Plantagenet)でドバイ・ミーティングに参加することになった。調教のためドバイに滞在していたのだが、突如アレルギーに襲われて呼吸困難となり、スペインへの帰国を余儀なくされた。12日間の入院を強いられ、プランタジネットへの騎乗は不可能に思われた。しかし、驚異的なペースで回復し、ドバイに戻って騎乗できることになった。
3月2日、プランタジネットはスペイン産馬として初めてドバイの地で勝利をあげた。しかも、スペイン人馬主、スペイン人調教師、スペイン人騎手による100%チーム・スペインでの勝利という快挙だった。
「大事なのは競馬に参加することではなく、参加して勝つこと」
初勝利から30年後の2017年1月1日、ホセ・ルイスはアンダルシア競馬場でネメリーナ(Nemerina)に騎乗して勝利をおさめ、通算1000勝を達成した。クラウディオ・カルデル、ロマン・マルティンに次いで、スペイン拠点の騎手としては史上3人目の大台突破である。この他にも、アフリカ、アジア、ヨーロッパでも白星を飾っている。
「競馬はパワーで勝つ競技ではない。インテリジェンスで勝つ競技である」
2020年、彼は2度目の引退を決意した。だが、その年に1頭の馬と出会ったことで、再び引退を先延ばしにした。ロダバーリョ(Rodaballo)である。
ロダバーリョはスペインのマイル王に君臨すると、2021年のドイツGⅡクロニムス・エッティンゲン・レネンを優勝した。「ロダバーリョに乗れなくなるなんてクソッタレだ」ということで、彼は現役を続行した。ロダバーリョがいなければ、ホセ・ルイス・マルティネス騎手がシャーガーカップに選出されることはなかった。
【ホセ・ルイス・マルティネスの代表騎乗馬】
マドリレーニョ(Madrileño) シメーラ(西2000ギニー)、ビリャパディエルナ(西ダービー)、コパ・デ・オロ(サン・セバスティアン最大の競走)。
スアンセス(Suances) 2000年仏GⅢギッシュ。後にモッセ騎乗で仏GⅠジャンプラを優勝。
セルティックロック(Celtic Rock) 2013年仏GⅢアンドレ・バボワン。
プランタジネット(Plantagenet) メイダンで勝利したスペイン産馬。後に瑞GⅢを優勝。
サーアンドリュー(Sir Andrew) ※ヘレンパラゴン(Helene Paragon) 2015年仏GⅠ2000ギニーで5着。後に香GⅠ制覇。
ヌーソーカナリアス(Noozhoh Canarias) 史上最高のスペイン産馬。仏リステッド優勝。後にスミヨン騎乗で仏GⅠジャン・リュック・ラガルデール2着、仏GⅠフォレ3着。
アルカイツ(Arkaitz) 2014年にスペイン3冠を達成。
ロダバーリョ(Rodaballo) 独GⅡクロニムス・エッティンゲン・レネンを優勝。
■ GⅡクロニムス・エッティンゲン・レネン
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木下 昂也(Koya Kinoshita)
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