
木下 昂也(Koya Kinoshita)
KYダービー馬カニョネーロを管理したベネズエラのフアン・アリアス調教師が死去

写真:Líder https://www.liderendeportes.com/noticias/hipismo/juan-arias-fue-una-inolvidable-victoria/
1971年にベネズエラ調教馬ながらケンタッキー・ダービーとプリークネス・ステークスの2冠を達成し、その年のエクリプス賞最優秀3歳牡馬に選出されたカニョネーロ(Cañonero)を管理したフアン・アリアス調教師が、Covid-19 のため20日にベネズエラで亡くなった。83歳だった。ベネズエラの複数のメディアが報じた。
フアン・アリアス調教師は、1938年5月6日にベネズエラ北部ヤラクイ州の町マリンで産まれた。1945年10月5日、父エウスタシオと母ウルバーナに連れられて首都カラカスに引っ越した。幼いころから馬への情熱を持ち、1955年に調教師専門学校へ入学した。調教師になると、最優秀2歳馬に輝いたディスコモ(Díscomo)などを管理した。
1969年9月、アリアス厩舎に2頭のアメリカ産馬が入厩した。そのうち1頭がカニョネーロである。1970年8月にデビュー勝ちをおさめると、馬主のペドロ・バプティスタはアリアス師に「デルマー競馬場で走らせるから、荷物とパスポートを用意しておけ」と言った。しかし、カリフォルニアではデルマー・フューチュリティーを含む2戦を走ったが、3着、5着と勝利はあげられず、ベネズエラに帰国した。
帰国後は4戦3勝と好成績をおさめた。そこで、カニョネーロを再びアメリカで走らせることにした。それが、ベネズエラ競馬史上最高の騎手の1人と称されるグスタボ・アビラ騎手を背に挑んだケンタッキー・ダービーである。結果はすでに述べたとおり、2冠達成である。3冠目のベルモント・ステークスは蹄に問題を抱えていたため4着に敗れた。
アリアス調教師はベネズエラのスポーツ紙『リデル(Líder)』のインタビューで、ケンタッキー・ダービーの勝利を次のように振り返った。
「後方集団でカニョネーロが通過するのを見て、わたしはこう思った。『俺たちはここでいったい何をやってるんだ』と。双眼鏡を下げると、数メートルのうちに馬群を見失った。1000mを過ぎたあたりで、わたしは後方集団にカニョネーロの姿を探したが見つけることができなかった。救急車のほうに目をやっても見当たらなかった。そのとき、キューバ人の職員がわたしに『あなたの馬は2番手集団を引っ張っていますよ』と教えてくれた。残り400m地点でカニョネーロが勝つと思った。『外国で勝ったぞ』と、わたしは自分自身に言い聞かせた。とても嬉しかった。しかし、当時はまだケンタッキー・ダービーを勝つということの意味や重要性をあまり理解していなかった。いまだに昨日のことのように思い出す。忘れられない勝利だ」
カニョネーロの歴史的勝利からちょうど半世紀。アメリカ最大の競走を制したチーム・ベネズエラの英雄の死に、ベネズエラ競馬界が大きな衝撃を受けている。
■ 1971年ケンタッキー・ダービー
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木下 昂也(Koya Kinoshita)
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