
木下 昂也(Koya Kinoshita)
パンプローナを取り巻くペルー4冠論争
この記事はペルーの競馬雑誌『エル・クラック(El Crack)』に掲載された "El caso de Pamplona" を翻訳・一部改編したものになります。
【予備知識】
■ パンプローナは父ポスティン、母ソサイエティーズウェイ、その父キングズウェイという血統で、1956年にペルーで産まれた。現在のペルー4冠にあたるレースをすべて勝利。引退後はアメリカで繁殖牝馬となり、1976年にイギリス・ダービーを勝ったエンペリー(Empery)を産んだ。そのエンペリーは後に日本に渡って種牡馬となった。
■ ペルー4冠競走は現在以下の4競走で構成されている。
ポージャ・デ・ポトランカス(牝馬)/ポージャ・デ・ポトリージョス(牡馬)
エンリケ・アジューロ・パルド(牝馬)/リカルド・オルティス・デ・セバージョス(牡馬)
デルビー・ナシオナル
ナシオナル・アウグスト・B・レギーア
パンプローナ(Pamplona)は4冠馬なのか、4冠馬ではないのか? ポスティンの娘が成し遂げた偉業に対する議論は60年以上も続いている。
パンプローナはポージャ・デ・ポトランカス、エンリケ・アジューロ・パルド、デルビー・ナシオナル、ナシオナルを勝利した。これら4つの競走は現在ではペルー4冠競走を構成している。
問題なのは、パンプローナがこれらのレースを勝った当時、ペルー競馬のシステムは4冠競走ではなく3冠競走だったということである。ナシオナルが含まれていなかった。ナシオナルが『ナシオナル・アウグスト・B・レギーア』という現在のレース名になり、3冠競走に加わって4冠競走となったのは1967年のことである。
また、牝馬限定のエンリケ・アジューロ・パルドも当時は3冠競走に含まれていなかった。3冠競走の2戦目を構成していたのはリカルド・オルティス・デ・セバージョスだけであり、3歳牡馬も3歳牝馬もこのレースに出走していた。
パンプローナはリカルド・オルティス・デ・セバージョスを、勝ち馬のピムリコ(Pímlico)から15馬身以上も離された最下位に敗れている。南米競馬機構(OSAF)が出版した年報には次のように書かれている。
「パンプローナがそれまで残していたインパクトがあまりにも強烈だったので、彼女は2000mのリカルド・オルティス・デ・セバージョスで圧倒的な1番人気に支持された。しかしながら、結果は期待を裏切るものだった。パンプローナはここで初黒星を喫した」
パンプローナはペルー競馬史上初の4冠馬なのか?
これについては60年経った今でも議論されている。確実に言えるのは、パンプローナを4冠馬とみなすこともできなくはないということである。
EL CRACK
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